昭和四十六年二月二十五日
御理解第五十一節
「天地の間に棲む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては家業出来難し。身上安全を願い家業出精五穀成就、牛馬に至る迄氏子身上の事何なりとも実意をもって願え。」
天地の間に棲む人間は神の氏子、私共全てが人類が、氏子身上痛み病気があっては家業出来難し、身上安全を願い家業出精、五穀成就牛馬に至る迄氏子身上のこと何なりとも実意をもって願えと、こういう素晴らしい御教えをね、どういう世界の隅々に居る人達にでもこの事が願えれる様な段取りを付ける術は無いものであろうかと。 人間である以上難儀と云うものがそこに沢山有ります。健康の事に、人間関係の事に、経済の問題、そうあらゆる難儀それはもうあらゆる難儀と云うてある、牛馬の事迄人間に関係のあるものならね。 ですから、インドあたりなんかの人は象を使いますね、牛馬の代わりに。だから、牛馬のこと、象のことでも良いから願えと云うてあります。人間かかわり合いの有るもの、関わりのない野原に棲む獅子とかライオンとかに至る迄と云うことじゃないです。
人間の関わりのある、人間の幸せにつながりのあるものならば、それは牛馬の事でも、犬猫のことでもどれでも良いと云うことである。そういう例えば、人間中心と云うか人間が幸せになることを中心にしての願い、しかもそれが願われるおかげが聞き届けられると云うのですから、本当に世界中の人間にこれを何とかして教えて頂きたいし、世界の人間誰一人としてそれでもいらぬと云う人はない。みんなそのことを願い続けておる。それがおかげを頂いてない。難儀に辛吟しているのですから、おかげを受けて行けれるならば道と云うかね。
昨日新聞が来ましてちょっとばかり読んだんですから、甘木の教会で七年間修行された先生が大分か何処かお取次とは何かと云うことを梅木と云う先生が書いとられますね、私は書いておられます終りの方を一寸読んだのですが、なかなか人が助かるどころか自分の親子、奥さんと子供五人が助からなかった。願っても願っても天地の親神様に直訴的な願い、もう直接天地に願う。
金光様の信心は大地の信心だと云われる位で、甘木辺りでは特にそれを大事にされるですかね。
御地面様、御地面様とどれだけ御地面様に土下座して祈ったか分からん。いわば天地にすがられた訳ですね。天地金乃神に向かって天地にすがられた。大地に土下座してすがられた。ところが何の応えもなかったと云う訳です。
ところが、此処にですね、生神金光大神と唱えてとにかく生神金光大神と、唱えての願いになってくる時に今迄の迷妄と云うか、今迄のおかげが受けられなかったのが一掃されて、それからおかげが受けられる様になったと云う事が書いて有る。と、思うのです。そこの所だけしか読まなかったですから、いよいよ七年間も布教に出られて人が助からんもんですから、或時一ヶ月間の修行を思い立たれた。ところが親教会であるところの甘木の安武先生にお取次を願って断食に入りますと云うてある。ところが、そういう修行は止めよと、簡単な態度でその横に書いてあった。ここに五円の小為替があるけれども、これを送ってやりたいと思ったけれども、おくってやりたいけれども、送ってやった分には助からんから送らないと書いてあった。厳しいですね。
いよいよ食べるに食べられない状態になったから、一ヶ月間の断食修行をしようと親先生である師匠に届けられた。それに対して師匠はそれに対して、そういう修行はするなと仰った。
例えばね、如何に修行してすがる願うと云うことが詰まらん事か分かる。どうぞ滝の水を頂きますからとか、さあ断食しますと云うことが如何に詰まらんかと云うことが分かります。
だからそげな事でですよ、天地に直訴される様に天地を拝んだところで金光様の信心は、天地の大恩徳とか御地面様を大事にせよとか云われるから、御地面様に土下座して願われた七年間、そしてとうとう食べるに食べられんところまで行った時に、それこそ大変な意気込みだったんでしょうね。一ヶ月間断食しようとそういう、いわばはまった修行をさせて頂いて願おうとされた訳です。ところが師匠の安武先生はどう云うておられるかと云うと、そげな修行をするなと簡単に、手紙でしょうか、葉書でしょうか、葉書でしょうね。それだけ簡単なことですから、それだけして読まなかったから分かりませんが、私は甘木の先生は偉いと思いますね。しっかり頑張れとは云うてなか。そげな修行はするなと仰っている。そして此処に五円の小為替、金はあると云う訳です。その当時の五円ですから相当の大金でしょうね。けどもこれを送ってやりたいけど送ったやったのではお前が助からんから送らんと書いてあった。
それなら送らんとなら云うてやらねば良いのにね。その辺のところが甘木の先生の偉いところでしょうね。私があんたを助けるのは訳ないぞと云うことです。けど、私が助けたんじゃあんたが助からんと云う訳です。そして梅木先生と云うお弟子に何と分かれと云われたかと云うこと、金光大神、金光大神と唱えることは、金光大神そのまま、即取次の道を開けと、いわゆる取次の道の働きと云いますかね、と、云う様な、も少し読んでおけば良かったけど私はこれだけしか読まなかった。お取次とは何かと云う、そこで例えば、ここのところですね、人間の幸せにつながる事であるならば、どのような事でも健康の事でも、経済の事でもそれこそ、牛馬の事でも構わないと云うことである。
人間に関わり合のある事であるなら、ここんところ人間の人間の幸福と関わりあると云うところじゃなけりゃいけん。だから豚の事でもよい訳です。何なりとも実意をもって願えと云う訳である。そこんところに金光大神の取次と云うことが問題に必要になってくるのである。そして金光大神の内容と云うものが実意そのものであると云うこと。だからここんところをですね、それはやはり七年間も何年間も道が開けなかったと云う梅木先生の場合でも、やはり金光教の看板を掛けておられる限り金光様を唱えられた事は間違いはない。
天地に直訴する様に願われて、御地面にも土下座して願われてそれでも神様はビクともしなさらなかった。とうとう一ヶ月間もの断食をする事を断行しようとその決心の程を師匠に云うて行った。ところが、そんな修行はするなと云う事であった。お前を助けることは訳ないことだけれど、此処に五円の小為替はあるけれども、これを送ってやればお前は楽になろうけれど、此処に手元に五円と云う金はあるけれども送らんと、師匠が弟子に何を求められたか、お前の願いのすべて身の上安全であろうが、家業出精五穀成就の事に至るまでと云うておられるのにおかげにならなかったのはどういう訳かと、どうでも此処に金光大神御取次と云う事が必要になってくる。
なら、金光大神お取次願うこと。なら親先生どうぞお願いしますと御結界でお取次される、そういことかと、私はそういう事じゃないと金光大神の内容を頂いての事で無ければいけない。御取次と云う事は金光大神の内容、その内容が実意を持って願える。金光大神の内容は実意。実意丁寧神信心。もうそれが金光大神の内容なのだ。
今、合楽では断食なんかが、いわばブームである。みんなが云うなら学生層から壮年、婦人層の方々迄がやっておる。
私は断食は止めなさいとは言わん。但し合楽での断食はね、実意のそこんところがわかる為に断食しよる。金光大神の内容が判らせて頂くことの為に断食しよる。いわゆる身を削り、修行を私は「 」えて無期限の人も、期限を切ってない神様のお許しを頂く迄と云った様な断食をされる方達がある。それは貴方の願いが成就する為でなくて、しら真剣に生神金光大神を唱えて、唱える内に金光大神の内容が分からせて貰うと云うこと。それが願いでありそれがミソなのである。ここでの修行の人は皆そうです。
高橋さんなんか十日間ばかりされました。そして結論として荒行即心行と云うことになってきた。あれは荒行じゃない。荒行と心行が一つになっている。ならば、金光大神の心行とはどういう事かと、私は実意だと思いますね。そこんところをね、私は分かれさせて頂く。
昨日、大和さんところの宅祭りがありました。年々歳々内容もあの様に充実して、もうそれこそ合楽の精鋭が一堂に集まってと云う感じでしたね。精鋭と云うとよっぽどよかつのごと。合楽で良かつですね。云うなら合楽での信心の熱心な方達が五十名集まって、もうあそこ一杯でした。お祭りも厳粛に賑やかに奉仕させて頂きました。そして一番私が有難いと思ったことは、大和さんが大和さんの力量とか気張りであのお祭りが仕えられてなかったと云うこと。もう一から十まで金光大神の御取次頂いて私が出来ることではない、何時もそれなんです。
神様のおかげを頂かなければ出來ることではないとしての願いが、云うなら大和さんの信心があのお祭りの様にある。表れておったことが一番有難い。そして後からの御理解頂きますのも、おかげは和賀心にあり、おかげは和賀心にありと簡単なことですけどね。
例えば、あのお祭りがもし大和さんが気張ってあれだけのお祭りが出来たとしても、おかげは吾が力でされとったらです、ああ云う有難いものではなかったろう。
ここんところを私は昨日、伊万里から丁度大和さんからお迎え頂く一寸前にお参りして来た森さんと云う方がお母さんの病気の為にお参りされました。それは医者に相談され、医者にかかられてお願いされたが良かろうと申しました。それは吾が才覚、吾が力で病気を治そうとしておったからです。そしてその事をお知らせを頂いたことを私が簡単に説明しましたら、それこそ平身低頭、親先生済みません。実はこうこうと云われるのがです、伊万里の病院にもかかって見ました。福岡の医大にもかかりました。ところがね、病気じゃないと云われた。手術した跡が痛むといわれる。動かれないと言う訳です。ところがそれが原因じゃないと云われる。初めは自分の才覚、自分の力で例えば、薬や医者の力で先ず先に治ろうと思うた。
その事を伏せて、あっちも頼んだこっちも頼んでいけんから、どうぞお願いしますとこういう訳なんです。おかげは和賀心にあり。おかげはお医者さんにあり。おかげは薬にありと云った様な考え方をして居ると言うことなんです。
だから貴方がそこまで云われるならば、私がお取次させて頂きましょう。そんならそこには医者も要らなければ薬も要らなくなったわけですから、じゃからそこんところをお詫びせなければいけん。
吾が力でしようとか、吾が力でなろうと、薬のおかげで良くなろう、医師のおかげで良くなろうと思うてその事を御詫びせなければいけん。
私個々ら辺のところが大変大事なところと思うんですよ。そこで合楽で信心をなさっている銘々の方達がです、おかげは和賀心にあると云うことをどの程度に分かっておられるだろうか。お商売をする、いろんな仕事をする。その商売なら商売の上に於いてのおかげをね、吾が力、吾が心でおかげにしようとしていろ。
そして神様からちょこっとばかり後押しして貰う様な程度のお願いしかしようらん。
おかげは和賀心にあると云うところです、皆さん、あんたは自分の力で商売しよるとおもうとなと私は云う。そしてどうぞ、お繰合わせを頂きます様にと。どうぞ、集金が寄ります様に、どうぞ、手形の事お願いしますとこう云うとるだけ。神様はいわば縦の形になっておられる。主従という神様が主になってござらん。
おかげは吾が心にありと、あげん云いござるっちゃないかと云うとこです。おかげと云うものは頼んで押したり引いたりして下さる事じゃない。ただ、お取次頂いているの、願うているのと云うことだったら、おかげは自分の力でそして神様からちょこっとばっかり音押しして貰っていると云うことしかならんのです。
そこでお取次をするにしましても、お取次を頂くと言うこと、御教えを頂くと云うこと、そして自分の心の中に和賀心を頂くと云うこと。その和賀心が中心である。特に和賀心が中心になることは、神様が中心に成って下さると云うことである。
だから、例えば自分が集金に行くなら行くでも、集金にやらせていただく事になるのである。
神様が働きの中心をなして下さる。縦の力をそれにいわば車を引く、引くものであるとするならば、神様が車は大体引いて下さるのである。後からこちらは押して付いて行くだけで良い。それがおかげは和賀心である。
その御理解を頂ながらおかげは和賀心にあると云うことを本当に分からせて頂いたらね、素晴らしいことになります。何時も和賀心が先行している訳であります。ですから、その後から付いて行くだけ、その和賀心とは何かと云うと、おかげは和賀心にあると仰る。その和賀心についてと云う事はそのまま神様に付いて行くと云う事である。神様を使いよるとじゃない。けれどもその和賀心にならずにこのここで云う和賀心と云うのは本当に自分が助かるとか助からんと云うことはね、自分の心がけ一つだと云うことなのです。今月今日一心に頼め、おかげは和賀こころにありと云う様に、和らぎ賀ぶ心と云う風にある訳ですけど、だから、心次第なのだ。
おかげは、例えば、私昨夕皆さん今月全部御禮に見えましたから、皆さん送りだしてから風邪具合いが悪うして大和さんとこでお風呂御無礼した様な訳でした。寝がけに入らせて貰うて寝まおと思いましたが、今日はお風呂が沸いとらんとこう云う。今日は一日位風呂に入りませんと皆が云うから入りませんでした。
それなら矢張り入りたいから、大きな風呂をですからね、もうたっぷりお湯は入れんでも良いから少しばかりで寝てから入るからと、広いからちゃぷちゃぷでも良いから入れてくれと頼んだ。私と久富さんと高橋さんと家内と四人しか入らん。だから、お湯はちょくっとで良か訳ですよ。こうやって長う寝て大きい風呂ですから、肩まで浸からんで良いと云うわけですよ。だから、ちょくっとだけで良いから入れてくれんのと頼んだ。そうしよるところへ秋永先生がおい出て見えた。本当にいつもの事ながら、鮮やかなおかげ頂きなさるねと云うた。
大変なおかげ頂いて昨夕御禮参拝に見えた。十一時でした。そりゃ、そのお話を一寸聞きよったもんだから、一寸時間がたっとる内にきみ子さんがそのお湯を入れるのをね、忘れとった。行って見たところが越しよるごとなっとった。そしてから、お話聞き終ってからお風呂に入った。私と久富さんと高橋さんと三人で入った。私お風呂に浸からせて頂いてからね、本当に有難いと思うことはね、本なごと云うとこんな越すごと入れて勿体ないと云うところじゃろばってん、成程勿体ないに間違いはないばってん、神様が私は少しばかりのお湯で良かと言ってるけれど、こういうだぶだぶしたお湯の中に漬けんじゃおかぬと云う働きのあったのが有難かった。まあそれが有難うしてたまらんから、もう休みかけてござった秋永先生に一寸良か風呂じゃけんあんたも暖まりに入りなさいと云いましてから秋永先生にも入って貰った。おかげは和賀心でしょうが。私が云うておるのはそれなんです。
勿体なか、こげん入れちから、たった三、四人しか入らんのに勿体なかと言うてからと云う心じゃないのです。
如何にもそれは勿体ないようですけど、そういう心にはおかげはないのですよ。今日は大坪総一郎私がです、一日寒い所で御用して来たから、神様がそれこそ、だぶだぶする様な温かいお湯に浸らせて下さろうとする御神意が有難かった。その心を思うたら有難かった。勿体なかった。
下さるそのおかげが勿体なかった。しみったれた勿体ないと違う。私はおかげを頂く心はそういう心だと思うです。和賀心。おかげは和賀心にありと云うこと。もっともっと自分の心に自身の心で一つ考えてごらんなさい。
おかげは吾が内にありとして仕事をしよるもんが殆どですよ。自分がこれからこれまでは頑張らなきゃ出来ん。そして毎日神様にお願いはしよる。どうぞどうぞちゅうて、だから神様はそれに対してちょこっと後押ししござるだけ、おかげは和賀心にあるのだ。
だから、和賀心、和らぎ喜ぶ心を一つ本気で精進の焦点に置かなければならないし、自分の心の使い方もおかげの頂けれう心に切り替えなければ成らないと、昨日の伊万里の森さんじゃあないけど、先ず詫びなければならん事の方が先決です。
本とに自分で出来ばしするごと、自分がしよりましたと云うことを、そしたらおかげの幅が大変違って來るです。
和賀心が引っ張って来て下さるんです。和賀心が云うなら神様なんだ。その後から私共付いて行くだけだから、良いでしょうが、吾が力でしよるとは神様が後からちょいと力を貸して下さるだけだから大変な違いがある。
氏子何なりとも実意をもって願えと云うことはそういう内容も有ると云うこと。
私は今日の御教えは一番先に感じたことは、天地の間に住む人間は神の氏子と呼びかけて下さって居る。昨日も申しました様に神様に願う、すがると云う事はです、それこそ乳飲み子が母親の膝に這い上がって行くようなもんだと。だからこそ、牛馬の事に至るまで実意をもって人間の幸福を関わり合がある事からであるならば、願えと云うこと。
だからこそ、すがる内容が只天地に直訴だけじゃいかん。一ヶ月断食なんてそんなことは止めろと云うことになるのである。おかげは和賀心にあるのだ。だから、断食そのものも和賀心を頂く為の断食なんである。
金光大神取次の内容であるところの実意を自分の心に頂く為の修行である。だからその事がです、先行しなければならぬ。その事が先なのだ。おかげの頂ける様になることが先ず第一なのだ。そしての願いである、そこには牛馬に至るまで実意を持って願えば聞き届けて下さらぬ事はないと云うことになるのである。しかも天地の間に住む人間はと仰る。世界中の隅ずみまで居る全てのもの人類、金光大神取次の道を分からせて貰い、金光大神取次の道を分からせて貰うと実意にです、自分等のあらゆる幸福を願わせて貰う為の願いを掛けさせて頂く様にならせて頂いたら、どの様に素晴らしい道が開けて來るであろうと思うのでございます。 どうぞ。